時間とエネルギー
気を入れるのと出る道ができたので、いくらやっても大丈夫だろうとますます面白くなって誰彼となく声をかけ治療する機会を求めた。そんなことをしていたら、以前なら30分かかったと思えるのが20分ほどで終わるようになった。してる側からすると30分ぐらいやったと思ってやめるのだが、実際には20分しか経っていない。これはさらに早くなり10分ほどになった。
これはどういうことだろう。物理は苦手なのでよく分からないが、エネルギー×時間=仕事量というような式に表すことができるだろうか。
仕事量を最初の頃の30分として、それにかかる時間がみじかくなってるのだから、もし上の式でよいなら気というエネルギーを沢山出したことになる。
皮一枚で冷気を止めてるのは一緒だから、気が入る道と気が出る道が太くなったとしか考えられない。
今はもっと単位時間当たりの出す気の量は増えているのは間違いないと感じている。ただし最初の頃のようにそんなにかかってないのに30分ほどしたと思うようなことはない。
これは何を意味するのだろう。
時間を長く感じる感じないは仕事量にかかわってる主観的なもののようだ。比較して始めて感じることであって、その仕事量に慣れてしまえばそれはそれで10分は10分ということになるんだろう。
とはいえ実際エネルギーを沢山使うと時間は長く感じられる。
人生で困難な状態にいるときや、初めての事をするときなかなか時間が経たない。
同じようなワンパターンの生活をしていると難しい事をしていてもあっという間に一日一年が過ぎる。
子供のときは全てが目新しく毎日充実していた。歳を重ねてくると一日何をしてたのかと思ってるうちにまたすぐに次の日が来る。
だらだらと分かったような分からないようなことを書いているが、頭を使うような状態ではエネルギーを沢山使っているということで人間が一回りも二回りも大きくなるにはこのエネルギーを多く使うことが大事に思える。苦労はかってでもしろと昔の人は上手く言ったもんだ。つまり人間の大きさは出すエネルギー量ということになるのかな。
またこんなこともある。
プロ野球のバッターがよく球が止まって見えたと言うことがある。武道の達人も相手の動きがスローに思えるときがあるそうだ。有名な話では合気道の創始者 植芝盛平氏は飛んで来る弾丸が見えたという。
これは対象物にものすごいエネルギーで集中することで仕事量を増し、時間を長く感じてるのではないだろうか。
先日テレビで集中ということについて話していたが、脳の使い方によるそうだ。脳はいろんなところが同時に働いているが、達人が集中してるときはその必要なところしか働いていないそうだ。そして他のところで使わないエネルギーがそこに集まって超人的な能力を出してるらしい。
唐突に座禅の話になるが、私は最近その集中したときの脳の使い方の話を聞いてから座禅は脳の働きを止める練習じゃないかと考えるようになった。
座禅をしてみると分かるが、最初は20分座ってるのがやっとである。その20分がものすごく長く感じられる。時間を長く感じるということはエネルギーを沢山使ってることだと仮定した。身体を動かさないようにしたものだから、脳にエネルギーが行き過ぎるのだろうか。だから脳の状態は空とか無とかからかけ離れた状態にちがいない。
それが毎日座っていると一時間座ってもそんなに座ったように思わなくなる。エネルギーがあまり使われなくなった。つまり脳の働きが減ったんじゃないだろうか。
座禅の楽しみはそれから出てくる。山吹色の直径一メートル位のスポットライトに照らされて、そのなかにいるとあまりに気持ちよくていつまでもそうしていたくなる。温度はこれ以上ないというような適温だ。これは座禅三昧の方がよくおっしゃる境地である。
しかし座禅はまだ先がある。その時脳の働きが完全に停止してエネルギーと意識と身体の存在を知ることができる。これは運がよければ体得できる。教えてはならないものだと思っている。だから、弘法大師も「明けの明星」としか述べていない。
その言葉から明け方に座禅を組む方も多いが、それは間違っていると思う。私は座禅を組み「明けの明星」を見たと信じているので断言したい。
さて、気で治療をするとき集中しているのかというとそうではない。話しながらでも食べながらでも飲みながらでも酔っ払っててもできる。私の身体はエネルギーの通り道というだけだから集中する必要がないのだろう。
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