平成20年薮入りの日
今日は実家に伯母さん方、妹、私達がお呼ばれの薮入りの日。
母と妻は手伝うため9時ごろ出て行ったが、私はバンクーバーのSKさんが電話をしてくるので家に残った。
SKさんは頑固な便秘で、治ると信じているが少し時間が要りそうな感じ。
今日は食事を朝食抜きにしていただくことを提案して、来週も電話していただくようにした。
11時ごろ実家に行ったらいいのでそれまでまだ時間があったから、畑に行って昨晩掃除をした九条ネギを伏せてから参加した。
伯母さん達はだんだん耳が遠くなってきておられるので、できるだけ話してもらうようにしたいのだが、つい妹や兄と話をしてしまって、蚊帳の外という風になっておられるんじゃないかとお顔をみたりしていた。
ほどなく食事になった。
久しぶりに昼からビール。
雨模様だが、蒸し暑い日でその上エビスの大瓶だからぷは~。
家では毎日大瓶では多すぎると近頃飲むのは缶だったから久しぶりに味わった。
ビールはやっぱりエビスの大瓶ですわ。
大瓶2本以上飲んでほろ酔い気分でいたら、従姉妹のMちゃんが伯母さんを迎えがてら、腎臓癌で氣を送らせていただいたOさんと待ち合わせてやってきた。
Oさんとは電話でしかお話したことがなく、お出会いするのはこれが初めてだった。
腎臓は摘出されたが、癌は一部死んでいたということで、電話治療を受けておられる頃は「そんなもん・・・」と言っておられたご主人もびっくりされ信用されたようで、主治医もこんなことは珍しいとびっくりしていたようなことだったらしい。
とはいえ、それが万人に同じようになるかといえばそんなことはないだろうと思う。
Oさんにもそんなことを言い、見えない力が分からない内は疑うことも大事であることを話した。
疑ったり信じたりしながら真理に到達するのが本来の姿で、それなら宗教にはまることはないだろう。
禅タロットにこんなのがあった。
禅のマスターは、ただの教師ではない。どの宗教にも教師しかいない。彼らはあなたの知らないことを教え、信じるように求める。というのも、そうした体験を客観的現実として表わす方法がないからだ。教師にしても、それらを知っているわけではない——信じたのだ。彼らは自分が信じたことを誰かほかの人に伝える。禅は信者たちの世界ではない。信心深い者たちのためにあるのではない。それはすべての信仰、不信仰、疑い、理性、心(マインド) を落とし、境界のない自分たちの純粋な存在へと入って行くことのできる、怖れを知らない魂(ソウル) たちのためにある。
そんな分かったような分からないようなことを話していたが、せっかく来てもらったのだから直接氣を受けていただかない手はない。
Oさんに客観的現実というのを見せられたかどうかは疑問だが、Mちゃんも声の進化は認めてくれた。
Oさんのすごく元気な様子が分かり嬉しいでした。いつでもまたお越し下さい。
夕方実家から帰り、習慣的に夕食をとったらお腹がいっぱいで少し苦しい。
それで、横になっていたら待っていたiku★ko さんのパンが届いた。
あまりに美味しそうなのでお腹もいっぱいだしとりあえず薄く切って味見をしたら我慢できなくなった妻がキュウリとハムを挟んで目の前に差し出した。
ほんまにも~、何すんねんと思いましたが、食べましたがな~。
いや~、美味しい。
消費活動に参加させてもらった幸せを歯ごたえのあるパンとともにかみ締めた時間でした。
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