悲報

江龍武

2009年03月09日 23:29

土曜日(7日)Aさんがハワイに行ってきたからとお土産を届けてくださった。
久しぶりなので上がってもらって、ハワイの身体全体の力が抜けるような気候の話や、偶然Aさんのお姉さんからAさんに携帯電話があって以前気を送らせていただいていたので久しぶりにお話したり、とのんびり楽しい時間を過ごしていたら、妻の携帯がなった。

直ぐに妻の顔が変わった。

短い電話を終えた妻は、Aさんの前だが、私の従兄弟の妻Mちゃんが亡くなったと告げた。
全然入院したとか知らされてなかったので、私たちには突然亡くなったように思われ心の準備がないところへの一撃だった。

後で分かったところでは、Mちゃんは、以前患った乳癌の転移で昨年の六月ごろから余命わずかということだったらしい。
年末には抗がん剤が効かないようになり、亡くなる10日前の入院する頃には黄疸とかが出ていたらしい。
それでも入院した四日後には娘の卒業式に外出許可で出席してもいたということだ。

そんなわけで、Aさんとののんびりした会話は急に調子が代わり、また少し入院されるお姉さんのことを承りAさんにも気を入れさせていただいてお暇していただくしかなかった。

それ以降は、何はともかく、野良仕事もできる格好で従兄弟の家に急いで行った。
家で葬儀をするなら庭の掃除もしないといけないし遺体の受け入れ準備を整えるため家を片付けないといけないと思ってのことだ。

従兄弟夫婦は二人とも聴覚障害者である。
従兄弟の亡くなった父は広島での被爆者で、遺伝子がそのとき傷ついたのだろう、従兄弟は聾唖者として耳が聞こえない身体を持って生まれている。
従妹の妹の方は聴覚は大丈夫だが、その子供達に成長とともに耳が聞こえなくなってきている子がいる。
原爆の悲惨さは本人だけでなく子、孫へと続いていることを考えると、そういうことを引き起こした人類のおろかさに暗澹たる思いになる。

ただそういう現実問題から離れ、魂はそんなハンデのある身体を選んで生まれているはずだという観点から考えると、何を勉強するためそんな大変な人生を選択しているのだろう。
小さい時薬で耳が殆ど聞こえなくなって47歳という若さで18,16歳といういまだ未成年の二人の娘を残して亡くなったMチャンの魂のことを思ってみている。

人のいうことを聞くことの重要性を学ぶためだろうか、克己心だろうか、優しさだろうか。
そしてまた、そんな親を持った子供達は何を学ぶために、そんな子供達を持つ親は何を学ぶために、そんな聾唖者のいる社会に住む人類はそれから何を学ぶんだろう?

そんな詮索はともかく、庭を綺麗にするための草刈機のエンジンをかける紐を引っ張ったとき、次のひと引きでかかるだろうというエンジン音を聞いたとき、これが分からないということかと思いながらエンジンをかけて庭仕事に入った。


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