法要不要?

江龍武

2008年05月04日 20:01

昨日西ノ宮に住む姪のRが実家に子供連れで帰ってきた。
私は出会いに行かなかったが、夕方妻が紙袋をぶら下げて戻ってきて、「Rちゃんから言付かってきたんだけど、前に治療したげたRちゃんのお友達のお子さんが調子よくなったからとお友達からお礼をあずかってきはったのをもらってきた」と言った。
以前ブログに書いたので探したら、治療時間という題のなかに書いてあった。
その時に、電話で一度、それからメールで写真を姪が送ってくれてそれで一度したきりになっていた。
デスクトップにショートカットが置いてあるのでいつも目に留まるようにしていたが、ぼちぼちもう一度やってみようかと思った時に伯母の事があってしていなかった。
そんなことだからお礼をもらうのは本当に悪い気がしたので、昨晩自分の心を軽くするため急ぎ写真治療をしておいた。
今日姪に出会ってその方の電話番号を知らないのでお礼をいただいたことへの礼を言っておいてくれるよう頼んだ時、「(お子さんの)カナちゃんは最初の電話治療以来、いままで冷たかった手足が暖かいままで、お医者さんからもう普通の生活をしても良いと言ってもらった」ということを聞いた。
カナちゃんは小児癌で片方の腎臓の摘出手術をしている。
氣が術後の体調を整えるということがこのケースからうかがえる。

今日は伯母の二七日で朝9時にお寺に法要のため親戚が集まった。
このお寺は最近新築されたのだが、新築後始めて本堂に上がったが、真中の仏様他少し以外はどこもかしこもぴかぴかでありがたみというのかおごそかさというのがない。
仏様も博物館に陳列されてるようで、その場に似つかわしくなく居心地が悪そうに思った。
以前はひなびていいお寺だったのにと残念に思っている。
天井の照明も体裁よく納まっているが蛍光灯だし・・・
近頃お寺の建て替えが競争でもしているように各地で行なわれているが、その理由が分からない。
神道なら伊勢神宮が20年に一度遷宮をするから親がするから子もするという感じでしても分かるような気がするが、こちらはしない。
お寺は比叡山でも本願寺でも知恩院でも修復はするが建て替えをしないでいる筈?なのにどうして末寺が金ぴかにするのだろう。
そのため檀家も二、三百万円は出してると思うのだが、そんなことまでするのは何故だろう。
住職や檀家衆が抹香臭いのが嫌なのだろうか。
そんなことを考えながら、お坊さんのお経を聞いていた。

法要が終わってから、四七日は都合が悪くて飛ばしたいと坊さんが言うのだが、これもおかしなことだと思った。
法要というものはしてもしなくてもいいということを坊さん自ら言ったような気がした。
結局宗教儀式というものはイベントでお金集めの手段のようなもの、魂を救うというものではないのだろう。
その人のことを思って手を合わせれば充分だし、それが最高の供養だとお寺に行って思った。

亡くなった人を相手にする坊さんは手を抜けても、生きてる方を相手にする私は手を抜けない。
頑張ろうと思った。


関連記事