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Posted by滋賀咲くブログat

2014年01月06日

仕事始め

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

年末年始の飲み食いでどよ~んとした体もここ二日の禁酒節食でちょっとしゃきっとしたので、さらにしゃきっとしないかと肉体労働をすることにした。
昨年末からいろんな人に我家の椎茸をさし上げたら評判があまりにいいので、新たに榾木を作っておこうと小型のチェインソーを持って林に入った。
直径30センチほどのコナラの木に向ったが、途中でスロットルが引っかかって高回転のままになり使いにくいし小型で余裕がないし切れ味も悪いしで途中で大きいのを持ってまたやりだした。
思い描いた方向に倒れたのは良かったが、切り始めに心配したもののまあいいかと始めたのが良くなくその心配通り上の方が周りの雑木に引っかかり根元は切り株の上に乗ったまま斜めの状態になってしまった。
根元を地面に落としたら何とかなるかと掛矢を持ってきて何回も何回も叩いて落としたが引っかかって斜めになったのは解消できず、玉切りして榾木にするまで立ってる方が水も落ちやすく乾燥しやすいだろう、その内に強風が吹いて解決する可能性もあるだろうということにして今日の仕事は終わりにした。
太い木なので、家庭栽培にはこれ一本だけの榾木の量で今年はよしと決める。
久しぶりの樵仕事、仕事始めとしては大仕事でした。
  


Posted by江龍武at 21:14 Comments(0) 生活

2012年04月22日

近頃は病院泊とお葬式でできてなかった畑の準備、種まきや苗の世話、ショウガや春ウコンの根塊の伏せ込みなどで忙しくしていたが、今日は雨でのんびりしている。
といっても今が盛りの筍掘りは午前中雨が小降りの時に行ってきた。
昨年出なかった分今年は出る勢いが違うようで、昨年買う予定だったが不作で必要ないと買わなかった筍掘り用の鍬も先日ついに手に入れた。
それ用というのはそれだけの値打ちがあるようで、ずかっと深く入るので綺麗に採れる。
土をあまりどけなくても打ち込めるし梃子の要領でおこせるし一本掘り上げるのにかかる時間が短くなったのもありがたい。
茹でて差し上げると差し上げた方の喜び様が違うので毎日茹でて差し上げている。
そのために三年前に偶然見つけ出した直径67cmの大鍋が大活躍している。
ただ、ベニヤ板を蓋代わりに載せていたのだがどうも感じが悪いし景色として情けない。
それで、筍掘り鍬を買った金物店でカタログから蓋の部分をコピーしてもらって確かなサイズを調べてから注文するつもりで家に戻ったが、値段を尋ねるのを忘れてたのに気が付いた。
妻がネットで調べたらあったというので、改めて自分で調べてみたらなんと1万7000円前後もすることが分かった。
今使っている同じサイズの鋳物の大鍋が3万円ほどでたかだか木の蓋がその半分以上もするのはちょっともったいないように思え、それなら自分で作るかという気になった。
ホームセンターに行ったついでに材料を品定めしたら集成材の板しかなく、本当ならムクの板で作りたかったがそれで作るしかないかと思い、板や角材で5千円弱かかることも分かったので、丸く切るのにジグソーが要るのでこれは兄がもしかすると持ってるかもしれないしそれを確認してからと、その日は材料を買わないで帰った。
昨日その件で兄に電話したら、あると言う。
板も実家に使えるのがあるかもしれないと言うので探しに行ったら、長い厚い杉の一枚板が見つかった。
植木鉢を置いた跡が片面一面に○○○・・・と付いていたし、ちょっと表面が浅く腐ってるような感じもあったが、もう一面は綺麗なものだったのでこれで十分すぎるとそれを使うことにした。
後で兄が教えてくれたが、ウチョウランを置く棚にしていた足場板ということだった。
角材も適当なのが見つかりジグソーを借りネジ釘ももらい材料は全部そろった。
ということで、直径70センチのちょっと歪んだりした箇所はあるものの使うには十分過ぎる丸い蓋がタダで出来上がった。
厚さ23mmの板で出来上がった蓋は適当な重さがあっていい感じで心なしか茹で上がりもよくなったように思える。

最近の私の筍の茹で方:
先日NHKのあさイチで竹の子特集があったが、その時の視聴者からのコメントで椿の葉でもアク抜きができると知った。
さっそくネットで調べたら筍一本に3,4枚でいいらしい。
試してみようと思い20本ほど茹でたので80枚ほど椿の葉を入れて茹でてみたらアクは抜けたがネットにあったように皮の付いてないところが黒くなった。
色が黒くなるだけでなく、薄味の料理に使うと竹の子の風味に乏しいように思えた。
そんなことで近頃は同じ筍の量に対して糠を主体に椿の葉を8枚ほど加えて茹でている。
  


Posted by江龍武at 15:37 Comments(0) 生活

2012年03月30日

記録 その後

父が逝きました。自分の記録として綴っておきたいと思います。

無事3月19日を迎え、還暦記念の旅行、伊勢参りに行けることになり朝9時に集合してバスに乗った。
18日の夜は妻に泊まるのを代わってもらって19日の朝を迎え、一人で朝食をとり着替えをして家を出た。
13人の当初の予定が、欠席者が二人出た。
一人は2月末に網膜剥離の手術を受けてバス旅行は無理、もう一人は義兄の脳梗塞の手術で来られなくなった。
この歳になるとなにやかやあるもんだと思いながらの出発だった。
妻は19日の朝から再三メールで父の状態をしらせてくれた。
19日の朝のメールでは血圧が下がることがあったが大丈夫だろうということだった。

伊勢に到着して外宮から参拝。
外宮にパワースポットがあったので手をかざしてみたら手がしびれるような感覚がありこれは本当にパワースポットだと思った。
携帯で写真を撮ろうとしたが撮れず原因がわかる前に時間切れで帰ることになり残念だった。
結局携帯本体のメモリーがいっぱいになっていただけのことだが、その旨前の機種なら教えてくれたのに今の機種は不親切な設計になっていたらしい。
友達に保存先をマイクロSDカードに指定しておかないと・・・と教えてもらって内宮まで行く間に悪戦苦闘してなんとかそのように設定したけれどそれでなんか疲れてしまった。
内宮はいつ行ってもすがすがしくて気持ちがよい。
外宮でも内宮でもお賽銭をして手を合わしたが、別に何も願い事をしているわけではない。
何時のころからか神社、仏閣の場所ではその場所に溶け込むような思いはあるものの願い事が浮かばないようになっている。
願い事がない心の状態を確認しているために手を合わしているようなものだ。
おかげ横丁で昼食を皆と一緒にとって集合時間まで散策の後、賢島の宝生苑に向かう。
欲しいものもないし赤福餅ならどこでも買えるだろうし明日があるからとお土産も買わずにいた。
部屋割りが決まった後、すぐにお風呂に行ったが、少し入っただけで頭が貧血になったのかふう~とする感じがしたので、長いこと入っていると危ないと思いそそくさと出て部屋に戻って横になっていた。
病院泊が続いていたので慢性睡眠不足から肉体が弱くなっていたのだろう、久しぶりに沢山歩いたのが応えたのかもしれない。
それでも食事のあとカラオケも楽しみヘパリーゼを飲んで準備したとはいえアルコールも久しぶりに沢山飲んだ。
明日の英虞湾めぐりなんかを楽しみにしながら布団に入った。

しっかり寝ていたのだが、メールの着信音が聞こえ簡単に目が覚めた。
20日の朝3時半過ぎだった。
病院で寝泊まりしていた癖でなにか音がすると起きるようになっているらしい。
メールを見ると妻からで、良い報告してたのに父が悪くなり血圧が低下しているという知らせだった。
昨晩8時に入った妻のメールでは今晩も大丈夫そうだからゆっくり楽しんできてくださいとあったのだが・・・
とりあえず急いで帰った方がよいかメールで尋ねたら、先生が家族を呼んだ方がよい、朝まで持つかというようなことで兄に今電話したところだとまた返事があった。
状況が理解できたので妻に電話して、手短に話し帰ると告げた。
バタバタと服を着替えてたら連れが起きたので親父が危ないから帰ると言って、フロントに行き、朝の四時では電車はないしタクシーを呼んでもらって帰ることにした。

19日バスに乗ってから友達に、なんとか旅行に参加できたけどもしもの時旅行先からどうして帰ったらよいか検索して参加したと言ったら、そんなんタクシーで帰ったらええやんかと冗談で言ってくれたけどそれが本当になってしまった。

ホテルにタクシーが来て乗ったのが4時16分、滋賀県まで行って欲しいんですけどナビありますかと尋ねたら事業所にあるからということでまずそれを取りに寄ってもらい後は一目散で病院に向かってもらった。
ホテルのフロントの方の話では、タクシーもその時間はまだ大手は営業してなく乗った大森タクシーだけしかやってないということだった。
営業してるタクシーがあってよかった。

病院には6時過ぎに着いた。
タクシーのメーターは4万円を超えていたけど、割引があって3万9千円ほどになり高速代が片道2800円で、お世話になった思いからだろう、運転手さんに帰りも高速で帰ってと渡したので約4万5千円ほどになった。
お通夜の日に義姉のお母さんにその話をしたら、朝三重ナンバーのタクシーが信号待ちしてるのを見たとき、三重ナンバーのタクシーが今頃こんなところにいるなんて誰が豪勢に帰ってきはったんやろうと思ってたけど武さんでしたか~というようなそれにまつわる会話があった。

病院に到着するまでに妻からのメールもなかったので間に合ったと思ったが、それでもバタバタと小走りで病室に行った。
皆が、返ってきたぁ~?!と迎えてくれた。
ベッドの上の父を見ると、これが始まると危ないと親しい看護婦さんが自分の体験から教えてくれていた下顎呼吸をしていた。
お父ちゃん、武、帰ってきたで! 賢島からタクシーやで!と最後まで耳は聞こえるというからとりあえず声をかけた。

その直後の先生の判断では、この呼吸だとお昼ごろでしょうということだったが、父はそれからも頑張って午後4時25分に息を引き取った。
4時ごろ妹ともう脳死状態やろうと言ったりして見守っていたが、妹が瞼を閉じてやってしばらくしたら今回3度目の便が出たので看護婦さんにお任せして廊下で待っていたら、次に呼ばれたときはベッドサイドについてあげてくださいという状態になっていて下顎呼吸の間隔も長くなっていた。
出産のときも生まれてくるのを誰かが見守って待っているのだから亡くなるときもその反対で誰かが送ってやりたいと思って、ほとんど24時間片時も離れず誰かがベッドの横にいて見守っていたが、最後は大勢で送ってやれることができて本当に良かったと思った。

病院で綺麗にしてもらってる間にかねてより相談していた葬儀社に連絡を入れ遺体を運んでもらうように手配した。
それから親戚や友人に電話を掛けたりしながら霊安室で母、兄、妹と車の来るのを待っていた。

父は誤嚥性肺炎で危篤状態になり入院したのが5年9か月前でそれ以来の帰宅になった。

そのうちに親戚が駆け参じてくれ雰囲気ができてきたころお寺のご縁さんが来てくださって、浄土真宗なのでまずおかみそりという儀式めいたことがあってから読経の後、軽い食事。
客僧や樒など親戚に頼めることは頼み、皆さんが帰った後、12時ごろまで兄と葬儀社とで打ち合わせをした。

父が政治から引退して随分となるので参列に来られる人数の予想がつかなかったものの家では到底無理だろうと思われ、父の葬儀はお寺を借りて行った。

次の日は朝から映画のおくりびとであったような湯かんから納棺までを午前中に行い、東京から戻ってくる姪が到着するまでそのままに家に置いておいてもらって午後3時過ぎにお寺に棺を運んでもらった。
姪が家にいるおじいちゃんを見たいという願いもあったが、この辺の風習で火葬はお通夜の晩にするということになっているので、昨晩の内夜伽からお寺に運ぶまでの間に家に来てくださった皆さんや家族、親戚にはできるだけ顔を見てもらっていた。

お通夜には多分300人以上の方がお参りしてくださっていたようで、火葬場に向かう霊柩車が出るまでほとんどの人が帰らずにいてくださったということを次の日聞き、気の強い短気な性格の父だったが世間様に尽し大事にされていたのだ、真似できない、勝てないと思ったようなことだった。

お寺から火葬場までは、明るい中に試しに歩いておいたのだがゆっくり歩いても10分ほどでいけるので、ガードマンの振る赤く光る棒を持った、道を知ってる私を先頭に、殆どの親戚は寒い夜道をある時は墓場の小道を通って火葬場に着いたら、もう読経が始まっていて先に車で着いたものから焼香が始まっていた。

全員の焼香が終わった後、棺が係りの人によって炉の中に入れられた。
その後、兄が炉の扉を閉めるボタンを押し次に点火のボタンを押して数名の親戚に焼けるまでそこに残ってもらって家に戻った。
2時間はかかると思っていたが、1時間ちょっとで焼けたと残った親戚が家に戻ってきた。
お骨拾いは明朝8時に家族の者が火葬場に行くことになっていて、別に付いてることもいらないという割り切ったもののようだ。
私の実家が最後にお葬式をしたのは祖母のときだから確か42年前でその時はまだこの辺も土葬が許されていて、火葬は今回の父が初めてだった。
なにか勝手が違うようなどうしていいのか分からないような感覚があったし、お葬式が終わってからお骨を何時埋めるのかでさえ未だ決めかねてるようなところがある。
最初はお葬式が終わって一息ついたときに私有墓地なので埋める場所を決めて穴を掘ってお骨を入れようと兄と話していたが、妹が49日過ぎてからするもんやと言うので今はそういうもんかと思っている。

予定通り朝8時に火葬場に行って総骨の入る壺に足から上に向けてお骨を入れた。
その後、地面に穴を掘って入れるんやから全部入れてやってほしいと母が言ったようで、兄がビニール袋を持ってきて残りの灰も全部回収して終わった。
お骨の入った壺はお寺に届け灰の方は暫く兄の車に乗ったままにしていたということだった。

本葬は22日1時半から始まった。
総勢10人の僧は、母の願いで浄土真宗の方は七条袈裟、浄土宗の方もそれに等しいような袈裟を着用していただいた。
会葬の方は500人弱を数えたようだ。
喪主である兄は昨日から白丁と呼ばれる裃を着て裸足でワラ草履のいでたちでいたが、その日は母も白を着た。
読経が始まると兄のまだ小さい孫達もほとんど騒がなくなるほどの荘厳さがあたりに漂った。
葬儀は滞りなく進み上記のようなことで告別式というのはなく、兄の会葬御礼の言葉で締めくくって会葬に来てくださった方々を並んでお見送りさせていただいて無事葬儀を終わらせていただいた。

父らしい最後を送ってやれたのではないかと思っている。

初七日はその日に家でとりおこなった。
お香典の集計は襖越しに座敷の一角で町の班の人がしてくださっていたのだが、初七日の最中にこの人は幾らという声が聞こえてきてちょっとその声を気にしている間にこれもなんとか終わった。
決算が終了するまでにもてなしの宴を始めると怒られるのでそういうわけにもいかず皆でその時を待って、後は、父がお酒が好きだったしとばかりに飲める人にはどんどん飲んでもらった。

いいお葬式だったとしみじみと思って今日に至っている。

その後も知らなかったからと実家の方へは弔問客が絶えず、母は毎日のように実家に張り付いている。
私は病院の付き添いでできてなかったシイタケの榾木作りや野菜の発芽した世話をしつつ、年金処理で役所を忙しく回っている。

ちょっと不思議なことのメモとして:
2月の何時だったか家で一人で居る時歯を磨いていたら玄関の戸が開いた音がしたので見に行っても誰もいず父が帰ってきたのかと思った。

それから幾日も経たない日に、家内と二人で廊下を誰かがドスドスと歩く音を聞いた。

初七日の後耳の聞こえない従兄弟と飲んでるとき、4時ごろ亡くなったかと訊かれ4時25分と答えたが、4時ごろ耳鳴りがして痛いほどだった。自分は父も叔母も妻の時もそうなって今度は自分かと思っていたということもあったらしい。
4時というと脳死かなと妹と話していた時だった。

東京から戻った姪は5月末に出産予定だが、前々からそこに生まれかわるのと違うかと冗談を言っていたが、お葬式の後お腹が急にポッコリ出たと言っている。何より私の体が感じることだが、もう漂っているという感じがしない。そっちの方の能力はないが、なぜかそう思える。
女の子というのは分かっているそうだから次は女性の政治家で頑張るつもりだろうか。政治には金がいるのでそれならそうで環境整備をしておいてやらないとと思ったり帝王学を身に着けさせないとと思ったり姪の子供なのにそんな夢想にふけっている。

偶然といえば偶然だが、亡くなったのが彼岸の中日で、お通夜とお葬式は晴れ、翌日から雨が降り続いた。

そんなような最後の最後まで劇的な人生を味わわせてくれてありがとう。
合掌
  


Posted by江龍武at 14:01 Comments(0) 生活

2012年03月13日

記録

1月3日中学時代のクラス会にロイヤルオークへ出かけていて、2次会はそこでし、草津まで移動して3次会のカラオケ店の部屋があくまでの間、駅前の喫茶店にいた。そこからカラオケ店まで歩いて向かう途中で友達の携帯に妻と兄から電話が入った。
あれっと思って私の携帯を見たらやっぱりで、呼び出しがあったが分からなかったらしい。
妻と兄からということだから内容はあまりいい話ではないと察せられた。
すぐに妻にかけたが話し中で、兄にかけて父が危篤状態になったのが分かった。
様子を訊いたら今は落ち着いてるということだったので、カラオケ店も近かったしそこに落ち着いてから氣を送ってみて帰るかどうか判断することにした。
掘りごたつ式の部屋だったので机の下で密かに送ってみた結果どうも脳梗塞か脳溢血が起こったように思われた。
とりあえずその状態だけは緩和するほど氣をこれまた密かに送っておいて3次会を楽しむことにした。
その後数人は4次会に行ったが、武っちゃんはもう帰りと言われたのと私も父がやはり気がかりなので帰宅する友達のお迎えの車に乗せてもらい家に戻り、すぐに妻に病院まで連れて行ってもらった。
妻によると血糖値が測れないほど上がっているそうで血圧も低くカタボンという昇圧剤を使ってもらってるという状態だった。
今度はもう助からないような気がしたのでカラオケ店から送った以上に氣を送るのは控えることにした。
その晩は母が病院に泊まったが、次の日からは81歳の母には負担がかかりすぎるので一番時間がどうにでもなる私が泊まることにした。
私の若いころから父がお腹が痛くなると私も痛くなるということがあったので、父と私の振動数はよく似ているのだろうと氣の治療をするようになってから思っていたのだが、そんなことだから私が泊まるということは別に氣を改まって送らなくても流れることにもなるだろうしという算段もあった。
父は1月8日が誕生日だったのでそれだけは迎えられたらいいのになあと思いながら日々を過ごしていた。
1月15日午後家で仮眠をとっていたら病院にいる義姉から電話があり、父の様子がおかしいので今先生がカタボンの投与量を増やしたりされてるが家族の者を呼んだ方がいいとおっしゃってるからということで、ばたばたと病院に駆け付けた。
それも父は何とか切り抜け今に至っているのだが、その時以来昇圧剤のカタボンは父の体重ではもうそれ以上増やせない量になっている。
血糖値はインシュリンは投与しているものの今はコントロールできるようにはなっている。
最初は誕生日までもったらと思っていたのが、15日以降2月を迎えられるだろうかと言いながら過ごしていたら、2月になり今度は妹の二男の披露宴の2月11日が近付いてきた。
父の容体はずーっと低空飛行でただ安定しているか安定していないかだけの日々が続いていたので、何が起こってもおかしくなかった。
披露宴とお葬式が重なったらどうしよう、年末年始はお葬式を遅らすことがあるからそうしたらどうだろうとか言いながらの日々だったが、今回も父は迷惑をかけなかった。
妹は披露宴が終わった翌日に病院に来て、お父ちゃんもう頑張らんでもええよとか言ったらしい。
それにしても次から次と社会生活を順調に送る上では周りの都合で生きててほしいと思うことがあるらしい。
今度は兄が月末に銀行との書類の更新があるから亡くなるといろいろ面倒なので生きててほしいという願いを持ってることを妻から聞いた。
なるほどそれはそうだと私も思って、2月14日だったか、それまでは息が荒くなったり熱が上がりすぎたりするとその症状を抑える程度の氣を入れていたのをちょっと方向転換することにした。
今までの経験から魂が離れそうになっていると脳天が開くというような表現をしているけど、ムズムズというかピリピリと痺れるような感覚をもつのだが、父にもそんな感じがその日はあった。
これも経験でその開きかけているのに蓋をするという感覚で抑え込んだのだが、それからふつうは2週間は持つのが経験則となっている。
14日だったから経験則通りなら2月28日まではもつということで例年ならそれで計算通りとなるのだが、今年は閏年で29日まである。
27日に書類は銀行に提出されたが、29日に病院に泊まっていて3月1日になるまではプレッシャーで押しつぶされる思いだった。
閏年をこんなに存在感を持ってとらえたのはこれが最初で最後に思われる。
そんなことで3月1日を迎えたときから暫くはホッとしたのかアラームが鳴っていても反応が鈍い自分がいるのがわかるほどだった。
今日は3月13日。
途中お医者さんに妙に安定してますけど今後どういう展開になりますかと尋ねたりして、分かりませんという答えをもらって今日に至っているのだが、本当にいつどうなるのか誰も分からない状態で日々を過ごしている。
3月19,20日と中学時代の友人12,3人で還暦記念にお伊勢さんに参る予定になっている。
父の闘病の姿を見ているとかわいそうで、私が泊まってるのが大事と思い、ほとんどの日相変わらず病院泊をしているけど、このために氣を入れることはしないでいる。

話変わって、このごろ思うことは政治への不信でしかない。
がれき処理を法律で地方にさせようとしていることなどもってのほかで民主主義はどこへ行ったのかと思うしかない。
放射能の問題もあるし、搬入のコストも現地に焼却炉を作って処理する方が何かと合理的なはずだと私は素人ながら思っている。
私の伯父は広島の被爆者で従兄弟は耳が聞こえないで生まれてきた。その妹は大丈夫だったが、妹の子供に耳の聞こえない子が二人もできた。
放射能物質はできるだけちらばらさないのが賢明だと思うのはおかしいのだろうか。
バケツにインクを落として水をみんな汚すよりインクはインクで置いておいて水はきれいなままで保ちたいと思うことが優しくない考えなんだろうか。
日本国土全体を汚す可能性を推進する考え方が私には分からない。

参考までにほんまでっかTVの武田先生のホームページです。
http://takedanet.com/2012/03/post_6946.html
それから先日天皇陛下が東日本大震災追悼式に出席された時のお顔が苦痛に歪んでいるように思えたので、術後まもなくでもありしんどいのだろうかと思っていたら、どうも追悼式でのお言葉の文面に政府か官僚かが制限をかけていたのではないかと思われる節があるようで、それに抵抗された決断のお覚悟が現れた表情だったと捉えた方がよいようだ。
http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/2012/03/nhk_598c.html
多くの政治家やマスコミ達の言動をみると、道徳、倫理、優しさ、感謝なんて言葉がむなしく響く。
  


Posted by江龍武at 15:59 Comments(0) 生活

2011年10月23日

復食失敗

18日のブログでもう大丈夫と書いたのに夜ひどい腹痛に襲われた。

18日の朝はコーヒーを飲んだがそれが悪かったんだろうか?
昼に母が卵焼きを作って置いておいたのでまだ蛋白質は早いかと思いながらもせっかくの親切心を無下にするのも駄目なような気がして食べたせいだろうか?
そのとき同時に栗ご飯の残りをお粥にしてもらったのがほんの少しだが傷みかけてる気がしたけど・・・
などなど色々腹痛で苦しみながら考えたが、食べてから腹痛までの時間などから考えると夕食時飲んだお茶が原因のように思われた。

若いときからお茶刈りをするとその匂いで船酔いのような状態になった。
あるときは、お茶を粉状にしたのをいただいて飲んだら今回と同じような腹痛で死ぬほど苦しんだことがある。

どうも私はお茶に少しアレルギーなのだろう。
その夕食まではその朝のコーヒーを除いて白湯を飲んでたのだが、コーヒーを飲んだことで少し気が緩んでいたようだ。

面白いことに、飲まず食わずの断食中は喉も乾かず脱水症状という感じにならなかったが、腹痛で下痢が始まるなりすぐに唇がからからになってしまった。
それで、今回は水分を補給した方がいいと思って、妻に白湯を持ってきてもらって便座に座りながら飲んでいた。

座りながら、腰痛で死ぬほど痛い目にあい、今度はまた腹痛で死ぬほどの苦しみを味わうなんて、命が危ないのだろうかなんて弱気な感情が芽生えたので、以前YYさんが教えてくれた「三脈の法」というのをやってみてまだ大丈夫そうだと思ったりしていた。

腹痛もなんとか一晩過ぎるとほぼ治り、少し注意しながらまた復食をしていたら20日にバンクーバーの友人のHさんの突然の来訪を受けることになった。

Hさんと私は飲み友達だからどうなることかと案じたが、案ずるよりは産むが易しで、最初お猪口に一杯ほどビールを口にしてそれを体が受け入れるのを待ってまた少しというようにしていたら、最後の方は普通に飲めるようになっていた。
心の片隅ではそれでも腹痛のことが気がかりでまた起こるかとびくびくものだったが、何事も起こらず次の日を迎えられてホッとした。

お茶はまだそれ以来飲んでいない。
アルコールもあれはお付き合いだったからとまだ飲まないでいる。

今日は腰痛の時に無理がかかったのか股関節が朝から痛い。
体はある意味頑丈だが、繊細なものだとつくづく思う。
  


Posted by江龍武at 14:59 Comments(0) 生活