2012年03月30日
記録 その後
父が逝きました。自分の記録として綴っておきたいと思います。
無事3月19日を迎え、還暦記念の旅行、伊勢参りに行けることになり朝9時に集合してバスに乗った。
18日の夜は妻に泊まるのを代わってもらって19日の朝を迎え、一人で朝食をとり着替えをして家を出た。
13人の当初の予定が、欠席者が二人出た。
一人は2月末に網膜剥離の手術を受けてバス旅行は無理、もう一人は義兄の脳梗塞の手術で来られなくなった。
この歳になるとなにやかやあるもんだと思いながらの出発だった。
妻は19日の朝から再三メールで父の状態をしらせてくれた。
19日の朝のメールでは血圧が下がることがあったが大丈夫だろうということだった。
伊勢に到着して外宮から参拝。
外宮にパワースポットがあったので手をかざしてみたら手がしびれるような感覚がありこれは本当にパワースポットだと思った。
携帯で写真を撮ろうとしたが撮れず原因がわかる前に時間切れで帰ることになり残念だった。
結局携帯本体のメモリーがいっぱいになっていただけのことだが、その旨前の機種なら教えてくれたのに今の機種は不親切な設計になっていたらしい。
友達に保存先をマイクロSDカードに指定しておかないと・・・と教えてもらって内宮まで行く間に悪戦苦闘してなんとかそのように設定したけれどそれでなんか疲れてしまった。
内宮はいつ行ってもすがすがしくて気持ちがよい。
外宮でも内宮でもお賽銭をして手を合わしたが、別に何も願い事をしているわけではない。
何時のころからか神社、仏閣の場所ではその場所に溶け込むような思いはあるものの願い事が浮かばないようになっている。
願い事がない心の状態を確認しているために手を合わしているようなものだ。
おかげ横丁で昼食を皆と一緒にとって集合時間まで散策の後、賢島の宝生苑に向かう。
欲しいものもないし赤福餅ならどこでも買えるだろうし明日があるからとお土産も買わずにいた。
部屋割りが決まった後、すぐにお風呂に行ったが、少し入っただけで頭が貧血になったのかふう~とする感じがしたので、長いこと入っていると危ないと思いそそくさと出て部屋に戻って横になっていた。
病院泊が続いていたので慢性睡眠不足から肉体が弱くなっていたのだろう、久しぶりに沢山歩いたのが応えたのかもしれない。
それでも食事のあとカラオケも楽しみヘパリーゼを飲んで準備したとはいえアルコールも久しぶりに沢山飲んだ。
明日の英虞湾めぐりなんかを楽しみにしながら布団に入った。
しっかり寝ていたのだが、メールの着信音が聞こえ簡単に目が覚めた。
20日の朝3時半過ぎだった。
病院で寝泊まりしていた癖でなにか音がすると起きるようになっているらしい。
メールを見ると妻からで、良い報告してたのに父が悪くなり血圧が低下しているという知らせだった。
昨晩8時に入った妻のメールでは今晩も大丈夫そうだからゆっくり楽しんできてくださいとあったのだが・・・
とりあえず急いで帰った方がよいかメールで尋ねたら、先生が家族を呼んだ方がよい、朝まで持つかというようなことで兄に今電話したところだとまた返事があった。
状況が理解できたので妻に電話して、手短に話し帰ると告げた。
バタバタと服を着替えてたら連れが起きたので親父が危ないから帰ると言って、フロントに行き、朝の四時では電車はないしタクシーを呼んでもらって帰ることにした。
19日バスに乗ってから友達に、なんとか旅行に参加できたけどもしもの時旅行先からどうして帰ったらよいか検索して参加したと言ったら、そんなんタクシーで帰ったらええやんかと冗談で言ってくれたけどそれが本当になってしまった。
ホテルにタクシーが来て乗ったのが4時16分、滋賀県まで行って欲しいんですけどナビありますかと尋ねたら事業所にあるからということでまずそれを取りに寄ってもらい後は一目散で病院に向かってもらった。
ホテルのフロントの方の話では、タクシーもその時間はまだ大手は営業してなく乗った大森タクシーだけしかやってないということだった。
営業してるタクシーがあってよかった。
病院には6時過ぎに着いた。
タクシーのメーターは4万円を超えていたけど、割引があって3万9千円ほどになり高速代が片道2800円で、お世話になった思いからだろう、運転手さんに帰りも高速で帰ってと渡したので約4万5千円ほどになった。
お通夜の日に義姉のお母さんにその話をしたら、朝三重ナンバーのタクシーが信号待ちしてるのを見たとき、三重ナンバーのタクシーが今頃こんなところにいるなんて誰が豪勢に帰ってきはったんやろうと思ってたけど武さんでしたか~というようなそれにまつわる会話があった。
病院に到着するまでに妻からのメールもなかったので間に合ったと思ったが、それでもバタバタと小走りで病室に行った。
皆が、返ってきたぁ~?!と迎えてくれた。
ベッドの上の父を見ると、これが始まると危ないと親しい看護婦さんが自分の体験から教えてくれていた下顎呼吸をしていた。
お父ちゃん、武、帰ってきたで! 賢島からタクシーやで!と最後まで耳は聞こえるというからとりあえず声をかけた。
その直後の先生の判断では、この呼吸だとお昼ごろでしょうということだったが、父はそれからも頑張って午後4時25分に息を引き取った。
4時ごろ妹ともう脳死状態やろうと言ったりして見守っていたが、妹が瞼を閉じてやってしばらくしたら今回3度目の便が出たので看護婦さんにお任せして廊下で待っていたら、次に呼ばれたときはベッドサイドについてあげてくださいという状態になっていて下顎呼吸の間隔も長くなっていた。
出産のときも生まれてくるのを誰かが見守って待っているのだから亡くなるときもその反対で誰かが送ってやりたいと思って、ほとんど24時間片時も離れず誰かがベッドの横にいて見守っていたが、最後は大勢で送ってやれることができて本当に良かったと思った。
病院で綺麗にしてもらってる間にかねてより相談していた葬儀社に連絡を入れ遺体を運んでもらうように手配した。
それから親戚や友人に電話を掛けたりしながら霊安室で母、兄、妹と車の来るのを待っていた。
父は誤嚥性肺炎で危篤状態になり入院したのが5年9か月前でそれ以来の帰宅になった。
そのうちに親戚が駆け参じてくれ雰囲気ができてきたころお寺のご縁さんが来てくださって、浄土真宗なのでまずおかみそりという儀式めいたことがあってから読経の後、軽い食事。
客僧や樒など親戚に頼めることは頼み、皆さんが帰った後、12時ごろまで兄と葬儀社とで打ち合わせをした。
父が政治から引退して随分となるので参列に来られる人数の予想がつかなかったものの家では到底無理だろうと思われ、父の葬儀はお寺を借りて行った。
次の日は朝から映画のおくりびとであったような湯かんから納棺までを午前中に行い、東京から戻ってくる姪が到着するまでそのままに家に置いておいてもらって午後3時過ぎにお寺に棺を運んでもらった。
姪が家にいるおじいちゃんを見たいという願いもあったが、この辺の風習で火葬はお通夜の晩にするということになっているので、昨晩の内夜伽からお寺に運ぶまでの間に家に来てくださった皆さんや家族、親戚にはできるだけ顔を見てもらっていた。
お通夜には多分300人以上の方がお参りしてくださっていたようで、火葬場に向かう霊柩車が出るまでほとんどの人が帰らずにいてくださったということを次の日聞き、気の強い短気な性格の父だったが世間様に尽し大事にされていたのだ、真似できない、勝てないと思ったようなことだった。
お寺から火葬場までは、明るい中に試しに歩いておいたのだがゆっくり歩いても10分ほどでいけるので、ガードマンの振る赤く光る棒を持った、道を知ってる私を先頭に、殆どの親戚は寒い夜道をある時は墓場の小道を通って火葬場に着いたら、もう読経が始まっていて先に車で着いたものから焼香が始まっていた。
全員の焼香が終わった後、棺が係りの人によって炉の中に入れられた。
その後、兄が炉の扉を閉めるボタンを押し次に点火のボタンを押して数名の親戚に焼けるまでそこに残ってもらって家に戻った。
2時間はかかると思っていたが、1時間ちょっとで焼けたと残った親戚が家に戻ってきた。
お骨拾いは明朝8時に家族の者が火葬場に行くことになっていて、別に付いてることもいらないという割り切ったもののようだ。
私の実家が最後にお葬式をしたのは祖母のときだから確か42年前でその時はまだこの辺も土葬が許されていて、火葬は今回の父が初めてだった。
なにか勝手が違うようなどうしていいのか分からないような感覚があったし、お葬式が終わってからお骨を何時埋めるのかでさえ未だ決めかねてるようなところがある。
最初はお葬式が終わって一息ついたときに私有墓地なので埋める場所を決めて穴を掘ってお骨を入れようと兄と話していたが、妹が49日過ぎてからするもんやと言うので今はそういうもんかと思っている。
予定通り朝8時に火葬場に行って総骨の入る壺に足から上に向けてお骨を入れた。
その後、地面に穴を掘って入れるんやから全部入れてやってほしいと母が言ったようで、兄がビニール袋を持ってきて残りの灰も全部回収して終わった。
お骨の入った壺はお寺に届け灰の方は暫く兄の車に乗ったままにしていたということだった。
本葬は22日1時半から始まった。
総勢10人の僧は、母の願いで浄土真宗の方は七条袈裟、浄土宗の方もそれに等しいような袈裟を着用していただいた。
会葬の方は500人弱を数えたようだ。
喪主である兄は昨日から白丁と呼ばれる裃を着て裸足でワラ草履のいでたちでいたが、その日は母も白を着た。
読経が始まると兄のまだ小さい孫達もほとんど騒がなくなるほどの荘厳さがあたりに漂った。
葬儀は滞りなく進み上記のようなことで告別式というのはなく、兄の会葬御礼の言葉で締めくくって会葬に来てくださった方々を並んでお見送りさせていただいて無事葬儀を終わらせていただいた。
父らしい最後を送ってやれたのではないかと思っている。
初七日はその日に家でとりおこなった。
お香典の集計は襖越しに座敷の一角で町の班の人がしてくださっていたのだが、初七日の最中にこの人は幾らという声が聞こえてきてちょっとその声を気にしている間にこれもなんとか終わった。
決算が終了するまでにもてなしの宴を始めると怒られるのでそういうわけにもいかず皆でその時を待って、後は、父がお酒が好きだったしとばかりに飲める人にはどんどん飲んでもらった。
いいお葬式だったとしみじみと思って今日に至っている。
その後も知らなかったからと実家の方へは弔問客が絶えず、母は毎日のように実家に張り付いている。
私は病院の付き添いでできてなかったシイタケの榾木作りや野菜の発芽した世話をしつつ、年金処理で役所を忙しく回っている。
ちょっと不思議なことのメモとして:
2月の何時だったか家で一人で居る時歯を磨いていたら玄関の戸が開いた音がしたので見に行っても誰もいず父が帰ってきたのかと思った。
それから幾日も経たない日に、家内と二人で廊下を誰かがドスドスと歩く音を聞いた。
初七日の後耳の聞こえない従兄弟と飲んでるとき、4時ごろ亡くなったかと訊かれ4時25分と答えたが、4時ごろ耳鳴りがして痛いほどだった。自分は父も叔母も妻の時もそうなって今度は自分かと思っていたということもあったらしい。
4時というと脳死かなと妹と話していた時だった。
東京から戻った姪は5月末に出産予定だが、前々からそこに生まれかわるのと違うかと冗談を言っていたが、お葬式の後お腹が急にポッコリ出たと言っている。何より私の体が感じることだが、もう漂っているという感じがしない。そっちの方の能力はないが、なぜかそう思える。
女の子というのは分かっているそうだから次は女性の政治家で頑張るつもりだろうか。政治には金がいるのでそれならそうで環境整備をしておいてやらないとと思ったり帝王学を身に着けさせないとと思ったり姪の子供なのにそんな夢想にふけっている。
偶然といえば偶然だが、亡くなったのが彼岸の中日で、お通夜とお葬式は晴れ、翌日から雨が降り続いた。
そんなような最後の最後まで劇的な人生を味わわせてくれてありがとう。
合掌
無事3月19日を迎え、還暦記念の旅行、伊勢参りに行けることになり朝9時に集合してバスに乗った。
18日の夜は妻に泊まるのを代わってもらって19日の朝を迎え、一人で朝食をとり着替えをして家を出た。
13人の当初の予定が、欠席者が二人出た。
一人は2月末に網膜剥離の手術を受けてバス旅行は無理、もう一人は義兄の脳梗塞の手術で来られなくなった。
この歳になるとなにやかやあるもんだと思いながらの出発だった。
妻は19日の朝から再三メールで父の状態をしらせてくれた。
19日の朝のメールでは血圧が下がることがあったが大丈夫だろうということだった。
伊勢に到着して外宮から参拝。
外宮にパワースポットがあったので手をかざしてみたら手がしびれるような感覚がありこれは本当にパワースポットだと思った。
携帯で写真を撮ろうとしたが撮れず原因がわかる前に時間切れで帰ることになり残念だった。
結局携帯本体のメモリーがいっぱいになっていただけのことだが、その旨前の機種なら教えてくれたのに今の機種は不親切な設計になっていたらしい。
友達に保存先をマイクロSDカードに指定しておかないと・・・と教えてもらって内宮まで行く間に悪戦苦闘してなんとかそのように設定したけれどそれでなんか疲れてしまった。
内宮はいつ行ってもすがすがしくて気持ちがよい。
外宮でも内宮でもお賽銭をして手を合わしたが、別に何も願い事をしているわけではない。
何時のころからか神社、仏閣の場所ではその場所に溶け込むような思いはあるものの願い事が浮かばないようになっている。
願い事がない心の状態を確認しているために手を合わしているようなものだ。
おかげ横丁で昼食を皆と一緒にとって集合時間まで散策の後、賢島の宝生苑に向かう。
欲しいものもないし赤福餅ならどこでも買えるだろうし明日があるからとお土産も買わずにいた。
部屋割りが決まった後、すぐにお風呂に行ったが、少し入っただけで頭が貧血になったのかふう~とする感じがしたので、長いこと入っていると危ないと思いそそくさと出て部屋に戻って横になっていた。
病院泊が続いていたので慢性睡眠不足から肉体が弱くなっていたのだろう、久しぶりに沢山歩いたのが応えたのかもしれない。
それでも食事のあとカラオケも楽しみヘパリーゼを飲んで準備したとはいえアルコールも久しぶりに沢山飲んだ。
明日の英虞湾めぐりなんかを楽しみにしながら布団に入った。
しっかり寝ていたのだが、メールの着信音が聞こえ簡単に目が覚めた。
20日の朝3時半過ぎだった。
病院で寝泊まりしていた癖でなにか音がすると起きるようになっているらしい。
メールを見ると妻からで、良い報告してたのに父が悪くなり血圧が低下しているという知らせだった。
昨晩8時に入った妻のメールでは今晩も大丈夫そうだからゆっくり楽しんできてくださいとあったのだが・・・
とりあえず急いで帰った方がよいかメールで尋ねたら、先生が家族を呼んだ方がよい、朝まで持つかというようなことで兄に今電話したところだとまた返事があった。
状況が理解できたので妻に電話して、手短に話し帰ると告げた。
バタバタと服を着替えてたら連れが起きたので親父が危ないから帰ると言って、フロントに行き、朝の四時では電車はないしタクシーを呼んでもらって帰ることにした。
19日バスに乗ってから友達に、なんとか旅行に参加できたけどもしもの時旅行先からどうして帰ったらよいか検索して参加したと言ったら、そんなんタクシーで帰ったらええやんかと冗談で言ってくれたけどそれが本当になってしまった。
ホテルにタクシーが来て乗ったのが4時16分、滋賀県まで行って欲しいんですけどナビありますかと尋ねたら事業所にあるからということでまずそれを取りに寄ってもらい後は一目散で病院に向かってもらった。
ホテルのフロントの方の話では、タクシーもその時間はまだ大手は営業してなく乗った大森タクシーだけしかやってないということだった。
営業してるタクシーがあってよかった。
病院には6時過ぎに着いた。
タクシーのメーターは4万円を超えていたけど、割引があって3万9千円ほどになり高速代が片道2800円で、お世話になった思いからだろう、運転手さんに帰りも高速で帰ってと渡したので約4万5千円ほどになった。
お通夜の日に義姉のお母さんにその話をしたら、朝三重ナンバーのタクシーが信号待ちしてるのを見たとき、三重ナンバーのタクシーが今頃こんなところにいるなんて誰が豪勢に帰ってきはったんやろうと思ってたけど武さんでしたか~というようなそれにまつわる会話があった。
病院に到着するまでに妻からのメールもなかったので間に合ったと思ったが、それでもバタバタと小走りで病室に行った。
皆が、返ってきたぁ~?!と迎えてくれた。
ベッドの上の父を見ると、これが始まると危ないと親しい看護婦さんが自分の体験から教えてくれていた下顎呼吸をしていた。
お父ちゃん、武、帰ってきたで! 賢島からタクシーやで!と最後まで耳は聞こえるというからとりあえず声をかけた。
その直後の先生の判断では、この呼吸だとお昼ごろでしょうということだったが、父はそれからも頑張って午後4時25分に息を引き取った。
4時ごろ妹ともう脳死状態やろうと言ったりして見守っていたが、妹が瞼を閉じてやってしばらくしたら今回3度目の便が出たので看護婦さんにお任せして廊下で待っていたら、次に呼ばれたときはベッドサイドについてあげてくださいという状態になっていて下顎呼吸の間隔も長くなっていた。
出産のときも生まれてくるのを誰かが見守って待っているのだから亡くなるときもその反対で誰かが送ってやりたいと思って、ほとんど24時間片時も離れず誰かがベッドの横にいて見守っていたが、最後は大勢で送ってやれることができて本当に良かったと思った。
病院で綺麗にしてもらってる間にかねてより相談していた葬儀社に連絡を入れ遺体を運んでもらうように手配した。
それから親戚や友人に電話を掛けたりしながら霊安室で母、兄、妹と車の来るのを待っていた。
父は誤嚥性肺炎で危篤状態になり入院したのが5年9か月前でそれ以来の帰宅になった。
そのうちに親戚が駆け参じてくれ雰囲気ができてきたころお寺のご縁さんが来てくださって、浄土真宗なのでまずおかみそりという儀式めいたことがあってから読経の後、軽い食事。
客僧や樒など親戚に頼めることは頼み、皆さんが帰った後、12時ごろまで兄と葬儀社とで打ち合わせをした。
父が政治から引退して随分となるので参列に来られる人数の予想がつかなかったものの家では到底無理だろうと思われ、父の葬儀はお寺を借りて行った。
次の日は朝から映画のおくりびとであったような湯かんから納棺までを午前中に行い、東京から戻ってくる姪が到着するまでそのままに家に置いておいてもらって午後3時過ぎにお寺に棺を運んでもらった。
姪が家にいるおじいちゃんを見たいという願いもあったが、この辺の風習で火葬はお通夜の晩にするということになっているので、昨晩の内夜伽からお寺に運ぶまでの間に家に来てくださった皆さんや家族、親戚にはできるだけ顔を見てもらっていた。
お通夜には多分300人以上の方がお参りしてくださっていたようで、火葬場に向かう霊柩車が出るまでほとんどの人が帰らずにいてくださったということを次の日聞き、気の強い短気な性格の父だったが世間様に尽し大事にされていたのだ、真似できない、勝てないと思ったようなことだった。
お寺から火葬場までは、明るい中に試しに歩いておいたのだがゆっくり歩いても10分ほどでいけるので、ガードマンの振る赤く光る棒を持った、道を知ってる私を先頭に、殆どの親戚は寒い夜道をある時は墓場の小道を通って火葬場に着いたら、もう読経が始まっていて先に車で着いたものから焼香が始まっていた。
全員の焼香が終わった後、棺が係りの人によって炉の中に入れられた。
その後、兄が炉の扉を閉めるボタンを押し次に点火のボタンを押して数名の親戚に焼けるまでそこに残ってもらって家に戻った。
2時間はかかると思っていたが、1時間ちょっとで焼けたと残った親戚が家に戻ってきた。
お骨拾いは明朝8時に家族の者が火葬場に行くことになっていて、別に付いてることもいらないという割り切ったもののようだ。
私の実家が最後にお葬式をしたのは祖母のときだから確か42年前でその時はまだこの辺も土葬が許されていて、火葬は今回の父が初めてだった。
なにか勝手が違うようなどうしていいのか分からないような感覚があったし、お葬式が終わってからお骨を何時埋めるのかでさえ未だ決めかねてるようなところがある。
最初はお葬式が終わって一息ついたときに私有墓地なので埋める場所を決めて穴を掘ってお骨を入れようと兄と話していたが、妹が49日過ぎてからするもんやと言うので今はそういうもんかと思っている。
予定通り朝8時に火葬場に行って総骨の入る壺に足から上に向けてお骨を入れた。
その後、地面に穴を掘って入れるんやから全部入れてやってほしいと母が言ったようで、兄がビニール袋を持ってきて残りの灰も全部回収して終わった。
お骨の入った壺はお寺に届け灰の方は暫く兄の車に乗ったままにしていたということだった。
本葬は22日1時半から始まった。
総勢10人の僧は、母の願いで浄土真宗の方は七条袈裟、浄土宗の方もそれに等しいような袈裟を着用していただいた。
会葬の方は500人弱を数えたようだ。
喪主である兄は昨日から白丁と呼ばれる裃を着て裸足でワラ草履のいでたちでいたが、その日は母も白を着た。
読経が始まると兄のまだ小さい孫達もほとんど騒がなくなるほどの荘厳さがあたりに漂った。
葬儀は滞りなく進み上記のようなことで告別式というのはなく、兄の会葬御礼の言葉で締めくくって会葬に来てくださった方々を並んでお見送りさせていただいて無事葬儀を終わらせていただいた。
父らしい最後を送ってやれたのではないかと思っている。
初七日はその日に家でとりおこなった。
お香典の集計は襖越しに座敷の一角で町の班の人がしてくださっていたのだが、初七日の最中にこの人は幾らという声が聞こえてきてちょっとその声を気にしている間にこれもなんとか終わった。
決算が終了するまでにもてなしの宴を始めると怒られるのでそういうわけにもいかず皆でその時を待って、後は、父がお酒が好きだったしとばかりに飲める人にはどんどん飲んでもらった。
いいお葬式だったとしみじみと思って今日に至っている。
その後も知らなかったからと実家の方へは弔問客が絶えず、母は毎日のように実家に張り付いている。
私は病院の付き添いでできてなかったシイタケの榾木作りや野菜の発芽した世話をしつつ、年金処理で役所を忙しく回っている。
ちょっと不思議なことのメモとして:
2月の何時だったか家で一人で居る時歯を磨いていたら玄関の戸が開いた音がしたので見に行っても誰もいず父が帰ってきたのかと思った。
それから幾日も経たない日に、家内と二人で廊下を誰かがドスドスと歩く音を聞いた。
初七日の後耳の聞こえない従兄弟と飲んでるとき、4時ごろ亡くなったかと訊かれ4時25分と答えたが、4時ごろ耳鳴りがして痛いほどだった。自分は父も叔母も妻の時もそうなって今度は自分かと思っていたということもあったらしい。
4時というと脳死かなと妹と話していた時だった。
東京から戻った姪は5月末に出産予定だが、前々からそこに生まれかわるのと違うかと冗談を言っていたが、お葬式の後お腹が急にポッコリ出たと言っている。何より私の体が感じることだが、もう漂っているという感じがしない。そっちの方の能力はないが、なぜかそう思える。
女の子というのは分かっているそうだから次は女性の政治家で頑張るつもりだろうか。政治には金がいるのでそれならそうで環境整備をしておいてやらないとと思ったり帝王学を身に着けさせないとと思ったり姪の子供なのにそんな夢想にふけっている。
偶然といえば偶然だが、亡くなったのが彼岸の中日で、お通夜とお葬式は晴れ、翌日から雨が降り続いた。
そんなような最後の最後まで劇的な人生を味わわせてくれてありがとう。
合掌
Posted by江龍武at14:01
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