2007年10月10日
偶像崇拝の弊害
先日クリスマスカードのことを書いた時、物質に気が入ることが分かったと書いたがそれから偶像崇拝について思いが至ったので書いておきたい。
多くの宗教の始祖が偶像崇拝を勧めていない。どちらかと言うと禁じている。それは一体どうしてだろうと自然に考えは向かう。
そのことに思いを馳せる人は少ないだろう。仏教には仏像があり、キリスト教には処刑された状態のキリストの姿かマリア様があるのが当たり前のようになっている。殆どの日本人の家には仏壇があり神道の家には御社が飾られている。そしてそれに手を合わせるのが大事なことのようになっている。
私は、手を合わせるという行為自身が大事だと思うし、先祖のことを思い出すのに対象が何かあるとやりやすいのでそれはそれなりに意味があるし否定するものでは決してない。
ただ、一般的に困った時の神頼みで、偶像に向かって窮状を訴え、助けを求める姿勢が危ないと思っている。
気には陽気と陰気があることは何度も書いているが、そのような助けを求める心からは陰気が放出されていると思って間違いない。心もネガティブだし身体も不調の方が拝むことが多いからさらにその傾向は顕著だ。
その拝んでいる対象は木であったり金物であったりするがただの物質から出来ている。そして物質に入る気の量というのは限定されているに違いないというのが私の見解だ。気の入ったテープ作りを何度もしたのでそれは手応えから感じている。
気というのは人間なら強弱や質の差はあれ、誰でも出せるし出してるものだ。だから、まっさらの物質の前でそれに向かって願い事のため拝めば、それも助けてくれと必死ですれば、その陰気は拝んでいる物質に吸収され暫くは役に立ってくれるはずだ。
ここに落とし穴がある。
いつも陰気を入れ続けていると、やがて物質は陰気で満たされ吸収できなくなった時、拝んだところに返してくる状態になる。そうなると誰が拝んでも、陽気を送っても、陰気が戻ってくることになり拝んだことが仇となる。陰気は不幸を呼ぶので人生は転落、家は没落となる可能性が高い。
偶像や仏壇に向かって、果ては神社仏閣および教会では、陰気を送るような心がけや身体の悪いところを治して欲しいというような願い事の体調では拝まないことだ。それが無理なら近づかないことだ。そういう場所で拝むとするなら神に感謝することが一番いいだろう。他には新しい道に向かって何かするとしたら頑張りますので見ていてください。というようなのはかまわないと思う。(パワースポットにあるのは別だろうと思うが、これは一般論として書いている。)
神に何かを頼むのが間違っていると言っているのではない。キリストも求めよさらば与えられんとおっしゃっている。辛い時、悲しい時、お金がない時、物を失った時などなど何でもいい。困ったときは目をつぶり虚空に向かって祈ればいい。布団の中でもかまわない。神に祈る時、静かな心、感謝する心があれば良いように思う。魂の進化の度合いによって願いが叶えられる時間に差はあるようだが、確かに願いは叶う。
古い家の仏壇はそういう意味でほとんど陰気に満たされている。
私の実家、妹の嫁いだ家、および治療してそんな話になった人の家のお仏壇には、そのように考えてから気を入れて中和した。実家と妹の家のはしっかり陰気が溜まっていた。このように中和して最初の状態になっていれば誰かが誤った拝み方をしても暫くは災いが来ることはないと信じている。
そんなことをしたら、霊はどうなるのだろうと思う心優しい人には、陰気と感じる霊は昇天すると思うし、仏壇に住めなくなって霊が困ってると思うなら、カナダの私の家は仏壇も何もないのに幽霊が居たと言っておこう。
(また長文になってすいません。)
多くの宗教の始祖が偶像崇拝を勧めていない。どちらかと言うと禁じている。それは一体どうしてだろうと自然に考えは向かう。
そのことに思いを馳せる人は少ないだろう。仏教には仏像があり、キリスト教には処刑された状態のキリストの姿かマリア様があるのが当たり前のようになっている。殆どの日本人の家には仏壇があり神道の家には御社が飾られている。そしてそれに手を合わせるのが大事なことのようになっている。
私は、手を合わせるという行為自身が大事だと思うし、先祖のことを思い出すのに対象が何かあるとやりやすいのでそれはそれなりに意味があるし否定するものでは決してない。
ただ、一般的に困った時の神頼みで、偶像に向かって窮状を訴え、助けを求める姿勢が危ないと思っている。
気には陽気と陰気があることは何度も書いているが、そのような助けを求める心からは陰気が放出されていると思って間違いない。心もネガティブだし身体も不調の方が拝むことが多いからさらにその傾向は顕著だ。
その拝んでいる対象は木であったり金物であったりするがただの物質から出来ている。そして物質に入る気の量というのは限定されているに違いないというのが私の見解だ。気の入ったテープ作りを何度もしたのでそれは手応えから感じている。
気というのは人間なら強弱や質の差はあれ、誰でも出せるし出してるものだ。だから、まっさらの物質の前でそれに向かって願い事のため拝めば、それも助けてくれと必死ですれば、その陰気は拝んでいる物質に吸収され暫くは役に立ってくれるはずだ。
ここに落とし穴がある。
いつも陰気を入れ続けていると、やがて物質は陰気で満たされ吸収できなくなった時、拝んだところに返してくる状態になる。そうなると誰が拝んでも、陽気を送っても、陰気が戻ってくることになり拝んだことが仇となる。陰気は不幸を呼ぶので人生は転落、家は没落となる可能性が高い。
偶像や仏壇に向かって、果ては神社仏閣および教会では、陰気を送るような心がけや身体の悪いところを治して欲しいというような願い事の体調では拝まないことだ。それが無理なら近づかないことだ。そういう場所で拝むとするなら神に感謝することが一番いいだろう。他には新しい道に向かって何かするとしたら頑張りますので見ていてください。というようなのはかまわないと思う。(パワースポットにあるのは別だろうと思うが、これは一般論として書いている。)
神に何かを頼むのが間違っていると言っているのではない。キリストも求めよさらば与えられんとおっしゃっている。辛い時、悲しい時、お金がない時、物を失った時などなど何でもいい。困ったときは目をつぶり虚空に向かって祈ればいい。布団の中でもかまわない。神に祈る時、静かな心、感謝する心があれば良いように思う。魂の進化の度合いによって願いが叶えられる時間に差はあるようだが、確かに願いは叶う。
古い家の仏壇はそういう意味でほとんど陰気に満たされている。
私の実家、妹の嫁いだ家、および治療してそんな話になった人の家のお仏壇には、そのように考えてから気を入れて中和した。実家と妹の家のはしっかり陰気が溜まっていた。このように中和して最初の状態になっていれば誰かが誤った拝み方をしても暫くは災いが来ることはないと信じている。
そんなことをしたら、霊はどうなるのだろうと思う心優しい人には、陰気と感じる霊は昇天すると思うし、仏壇に住めなくなって霊が困ってると思うなら、カナダの私の家は仏壇も何もないのに幽霊が居たと言っておこう。
(また長文になってすいません。)
2007年09月21日
金ラメ出現
昨日の稿にノンノンさんからコメントを頂いた。読んでいただいたら分かるが、その中に黒いスカートに金粉が出たのを思い出したとある。以前金粉のことを書いたが、その時あまりにも荒唐無稽のことなので書くのを控えていた。ノンノンさんが証人なのでここで書いておきたい。(ところで、ブログどうして知りました?)
多分1991年日本に帰りデビューする直前のことだったと思う。ノンノンさんは両親がよく知ってるのでそれまでに石井先生の本とか母が話してたのかもしれない。それで多分私が帰国したとき来られたのだと思う。母の記憶によると3人ほどで来られたということだ。私は時差ぼけもあって思い出すといっても夢の話のようなあいまいなものだ。
ただ、その中の一人の方の黒いスカートが気をかけ終わったら隈なく金のラメ入りになったのを来られてる方も母も私も見ることになる。ノンノンさんではなかったと思うのだが・・・母はおきよちゃんと言っている。それは後日洗っても落ちなかったそうだ。記念にとってあるというようなことはないと思うが、もう一度見てみたいと思う。
カナダでも一度あった。その時は、誰かの紹介で気を受けに来た日本人の若者に起こった。その時はTシャツが金ラメになった。
こういう現象は信じるにはあまりに不思議すぎてそれを目撃した人もあまり話さないし、そんな話を聞いたところで探求することもできないし、ほぉ~の一言で片付けられる。私もなぜそんなことが起こったのか分からないし再現しろといわれてもできない。できたのは目に見えないような小さい金粉を一個出すぐらいだった。
さて、なぜ金粉が出現するのかは分からないとしても、この金粉はなんなのかと考えることはできる。
私はなにか汚いエネルギーの浄化の結果現れてるのではないかと思ってる。
なぜ汚いエネルギーと言ったかというと、私に出現する金粉が段々減り、最後は気にしなくなってたこともあるが殆どでなくなったことからそう考えている。人に気をかけるようになってから身体も心もできるだけ清浄にするよう努めてたからである。
例えば、嘘をつかずに生活する。これは大変だった。黙ってるのも嘘の内なので内緒の話は聞かないようにもした。
それに、当時小学生だった姪のYにも出たことを考えると、心が汚いという意味ではないと思う。おそらく感応する体質のものは多かれ少なかれ自然に悪い気をその身に受けて溜めているのだろう。
例のKちゃんが言っていた。金を身につけるといい気も悪い気も集まってくるらしい。お金持ちになりたかったら、だから清濁併せ呑む覚悟で金を身につけるのが近道かもしれない。成功するか自滅するかはあなたの気の持ちようと気の強さによるだろう。
Kちゃんはいい気だけを欲しいというか悪魔よけのため銀を身につけていた。私は何もつけない。
おまけ話。
コメントを読んで金ラメのことを母と話してすぐ後、太ももに小さな金粉を見つけた。何かよこしまな心ができてたのかと思い、反省しながら大根の虫取りをした。
多分1991年日本に帰りデビューする直前のことだったと思う。ノンノンさんは両親がよく知ってるのでそれまでに石井先生の本とか母が話してたのかもしれない。それで多分私が帰国したとき来られたのだと思う。母の記憶によると3人ほどで来られたということだ。私は時差ぼけもあって思い出すといっても夢の話のようなあいまいなものだ。
ただ、その中の一人の方の黒いスカートが気をかけ終わったら隈なく金のラメ入りになったのを来られてる方も母も私も見ることになる。ノンノンさんではなかったと思うのだが・・・母はおきよちゃんと言っている。それは後日洗っても落ちなかったそうだ。記念にとってあるというようなことはないと思うが、もう一度見てみたいと思う。
カナダでも一度あった。その時は、誰かの紹介で気を受けに来た日本人の若者に起こった。その時はTシャツが金ラメになった。
こういう現象は信じるにはあまりに不思議すぎてそれを目撃した人もあまり話さないし、そんな話を聞いたところで探求することもできないし、ほぉ~の一言で片付けられる。私もなぜそんなことが起こったのか分からないし再現しろといわれてもできない。できたのは目に見えないような小さい金粉を一個出すぐらいだった。
さて、なぜ金粉が出現するのかは分からないとしても、この金粉はなんなのかと考えることはできる。
私はなにか汚いエネルギーの浄化の結果現れてるのではないかと思ってる。
なぜ汚いエネルギーと言ったかというと、私に出現する金粉が段々減り、最後は気にしなくなってたこともあるが殆どでなくなったことからそう考えている。人に気をかけるようになってから身体も心もできるだけ清浄にするよう努めてたからである。
例えば、嘘をつかずに生活する。これは大変だった。黙ってるのも嘘の内なので内緒の話は聞かないようにもした。
それに、当時小学生だった姪のYにも出たことを考えると、心が汚いという意味ではないと思う。おそらく感応する体質のものは多かれ少なかれ自然に悪い気をその身に受けて溜めているのだろう。
例のKちゃんが言っていた。金を身につけるといい気も悪い気も集まってくるらしい。お金持ちになりたかったら、だから清濁併せ呑む覚悟で金を身につけるのが近道かもしれない。成功するか自滅するかはあなたの気の持ちようと気の強さによるだろう。
Kちゃんはいい気だけを欲しいというか悪魔よけのため銀を身につけていた。私は何もつけない。
おまけ話。
コメントを読んで金ラメのことを母と話してすぐ後、太ももに小さな金粉を見つけた。何かよこしまな心ができてたのかと思い、反省しながら大根の虫取りをした。
2007年09月16日
時間とエネルギー
気を入れるのと出る道ができたので、いくらやっても大丈夫だろうとますます面白くなって誰彼となく声をかけ治療する機会を求めた。そんなことをしていたら、以前なら30分かかったと思えるのが20分ほどで終わるようになった。してる側からすると30分ぐらいやったと思ってやめるのだが、実際には20分しか経っていない。これはさらに早くなり10分ほどになった。
これはどういうことだろう。物理は苦手なのでよく分からないが、エネルギー×時間=仕事量というような式に表すことができるだろうか。
仕事量を最初の頃の30分として、それにかかる時間がみじかくなってるのだから、もし上の式でよいなら気というエネルギーを沢山出したことになる。
皮一枚で冷気を止めてるのは一緒だから、気が入る道と気が出る道が太くなったとしか考えられない。
今はもっと単位時間当たりの出す気の量は増えているのは間違いないと感じている。ただし最初の頃のようにそんなにかかってないのに30分ほどしたと思うようなことはない。
これは何を意味するのだろう。
時間を長く感じる感じないは仕事量にかかわってる主観的なもののようだ。比較して始めて感じることであって、その仕事量に慣れてしまえばそれはそれで10分は10分ということになるんだろう。
とはいえ実際エネルギーを沢山使うと時間は長く感じられる。
人生で困難な状態にいるときや、初めての事をするときなかなか時間が経たない。
同じようなワンパターンの生活をしていると難しい事をしていてもあっという間に一日一年が過ぎる。
子供のときは全てが目新しく毎日充実していた。歳を重ねてくると一日何をしてたのかと思ってるうちにまたすぐに次の日が来る。
だらだらと分かったような分からないようなことを書いているが、頭を使うような状態ではエネルギーを沢山使っているということで人間が一回りも二回りも大きくなるにはこのエネルギーを多く使うことが大事に思える。苦労はかってでもしろと昔の人は上手く言ったもんだ。つまり人間の大きさは出すエネルギー量ということになるのかな。
またこんなこともある。
プロ野球のバッターがよく球が止まって見えたと言うことがある。武道の達人も相手の動きがスローに思えるときがあるそうだ。有名な話では合気道の創始者 植芝盛平氏は飛んで来る弾丸が見えたという。
これは対象物にものすごいエネルギーで集中することで仕事量を増し、時間を長く感じてるのではないだろうか。
先日テレビで集中ということについて話していたが、脳の使い方によるそうだ。脳はいろんなところが同時に働いているが、達人が集中してるときはその必要なところしか働いていないそうだ。そして他のところで使わないエネルギーがそこに集まって超人的な能力を出してるらしい。
唐突に座禅の話になるが、私は最近その集中したときの脳の使い方の話を聞いてから座禅は脳の働きを止める練習じゃないかと考えるようになった。
座禅をしてみると分かるが、最初は20分座ってるのがやっとである。その20分がものすごく長く感じられる。時間を長く感じるということはエネルギーを沢山使ってることだと仮定した。身体を動かさないようにしたものだから、脳にエネルギーが行き過ぎるのだろうか。だから脳の状態は空とか無とかからかけ離れた状態にちがいない。
それが毎日座っていると一時間座ってもそんなに座ったように思わなくなる。エネルギーがあまり使われなくなった。つまり脳の働きが減ったんじゃないだろうか。
座禅の楽しみはそれから出てくる。山吹色の直径一メートル位のスポットライトに照らされて、そのなかにいるとあまりに気持ちよくていつまでもそうしていたくなる。温度はこれ以上ないというような適温だ。これは座禅三昧の方がよくおっしゃる境地である。
しかし座禅はまだ先がある。その時脳の働きが完全に停止してエネルギーと意識と身体の存在を知ることができる。これは運がよければ体得できる。教えてはならないものだと思っている。だから、弘法大師も「明けの明星」としか述べていない。
その言葉から明け方に座禅を組む方も多いが、それは間違っていると思う。私は座禅を組み「明けの明星」を見たと信じているので断言したい。
さて、気で治療をするとき集中しているのかというとそうではない。話しながらでも食べながらでも飲みながらでも酔っ払っててもできる。私の身体はエネルギーの通り道というだけだから集中する必要がないのだろう。
これはどういうことだろう。物理は苦手なのでよく分からないが、エネルギー×時間=仕事量というような式に表すことができるだろうか。
仕事量を最初の頃の30分として、それにかかる時間がみじかくなってるのだから、もし上の式でよいなら気というエネルギーを沢山出したことになる。
皮一枚で冷気を止めてるのは一緒だから、気が入る道と気が出る道が太くなったとしか考えられない。
今はもっと単位時間当たりの出す気の量は増えているのは間違いないと感じている。ただし最初の頃のようにそんなにかかってないのに30分ほどしたと思うようなことはない。
これは何を意味するのだろう。
時間を長く感じる感じないは仕事量にかかわってる主観的なもののようだ。比較して始めて感じることであって、その仕事量に慣れてしまえばそれはそれで10分は10分ということになるんだろう。
とはいえ実際エネルギーを沢山使うと時間は長く感じられる。
人生で困難な状態にいるときや、初めての事をするときなかなか時間が経たない。
同じようなワンパターンの生活をしていると難しい事をしていてもあっという間に一日一年が過ぎる。
子供のときは全てが目新しく毎日充実していた。歳を重ねてくると一日何をしてたのかと思ってるうちにまたすぐに次の日が来る。
だらだらと分かったような分からないようなことを書いているが、頭を使うような状態ではエネルギーを沢山使っているということで人間が一回りも二回りも大きくなるにはこのエネルギーを多く使うことが大事に思える。苦労はかってでもしろと昔の人は上手く言ったもんだ。つまり人間の大きさは出すエネルギー量ということになるのかな。
またこんなこともある。
プロ野球のバッターがよく球が止まって見えたと言うことがある。武道の達人も相手の動きがスローに思えるときがあるそうだ。有名な話では合気道の創始者 植芝盛平氏は飛んで来る弾丸が見えたという。
これは対象物にものすごいエネルギーで集中することで仕事量を増し、時間を長く感じてるのではないだろうか。
先日テレビで集中ということについて話していたが、脳の使い方によるそうだ。脳はいろんなところが同時に働いているが、達人が集中してるときはその必要なところしか働いていないそうだ。そして他のところで使わないエネルギーがそこに集まって超人的な能力を出してるらしい。
唐突に座禅の話になるが、私は最近その集中したときの脳の使い方の話を聞いてから座禅は脳の働きを止める練習じゃないかと考えるようになった。
座禅をしてみると分かるが、最初は20分座ってるのがやっとである。その20分がものすごく長く感じられる。時間を長く感じるということはエネルギーを沢山使ってることだと仮定した。身体を動かさないようにしたものだから、脳にエネルギーが行き過ぎるのだろうか。だから脳の状態は空とか無とかからかけ離れた状態にちがいない。
それが毎日座っていると一時間座ってもそんなに座ったように思わなくなる。エネルギーがあまり使われなくなった。つまり脳の働きが減ったんじゃないだろうか。
座禅の楽しみはそれから出てくる。山吹色の直径一メートル位のスポットライトに照らされて、そのなかにいるとあまりに気持ちよくていつまでもそうしていたくなる。温度はこれ以上ないというような適温だ。これは座禅三昧の方がよくおっしゃる境地である。
しかし座禅はまだ先がある。その時脳の働きが完全に停止してエネルギーと意識と身体の存在を知ることができる。これは運がよければ体得できる。教えてはならないものだと思っている。だから、弘法大師も「明けの明星」としか述べていない。
その言葉から明け方に座禅を組む方も多いが、それは間違っていると思う。私は座禅を組み「明けの明星」を見たと信じているので断言したい。
さて、気で治療をするとき集中しているのかというとそうではない。話しながらでも食べながらでも飲みながらでも酔っ払っててもできる。私の身体はエネルギーの通り道というだけだから集中する必要がないのだろう。
2007年08月24日
うつるんです
先ほど姪がやってきた。昨日のお礼の意味も含めて沢山イチジクをもらったからとお裾分けに来てくれた。あまりに立派なイチジクだったのでクーちゃんのことより作り方の方が気になった。姪に訊いても知ってるはずもなく未だに気になって仕方がない。プロというのはすごいといつも思う。
さて、クーちゃんだが、もういつもと同じになったそうだ。よほど疲れたのか寝てばかりいるらしい。やはり犬には気はよく効く。
イギリス人のLさんにも、あれ以来毎日気を入れに行っているが、本人は喉だけでなく身体のどこにも今まであった痛いところや変な感じが無いようになったと言っている。元気になってお腹が空くのかいつ普通食が出るのかと尋ねられてもこればかりは病院のやり方に従うしかない。いずれにせよ絶食をしたら復食は絶食した期間の2倍かけるのが原則だから急がない方が賢明だ。と説明しておいた。
今回も犬と白人にはやはりよく効くとまた思わせてくれた。
犬にはよく効くと書いたらやはり猫好きの人はじゃー猫はどうなんだと知りたくなるのではないかと思うのでその辺についてちょっと書いておきたい。
過去に猫にも何回か頼まれて気を入れた経験から言うと、猫にも効く事は確かだ。生物なら猫に限らず効くと思ってる。気を物体に入れることができるということも大学の後輩からの報告で確認した事もある。
ただ治療師として未熟なのか、猫の場合どこが悪いか分からない。犬は人と同じで、大体だがどこが問題か分かるのでよし治せた!と納得できるのだが、猫の場合はただ身体全体に気を入れるというだけのことしか出来ない。
この道に関係している人なら分かると思うが、気を入れると相手の痛いところと同じところが痛くなったり、冷たく感じたり熱く感じたり色々な感覚が施術しているものにうつってくる。
対面していたら鏡写しに、背中からなら身体そのままに症状がうつってくる。真横からは無意識なら背中からと同じで、意識で対面に替えられる。遠隔治療の場合は自分の思う方向からできるし反応もそのように出る。それであこが悪いここが悪いと言うのだが、それが猫からはない。
犬が飼い主の病気を背負って亡くなったというような話をたまに聞くが、この気に含まれていると思われる情報の類似性とそのやりとりがそのような現象に関係しているのではないかと思っている。
猫は化け猫の話はあっても犬のような話を聞かない。
明日からは気の治療師として私が辿った道を今まで以上に書いていきたいと思っている。
さて、クーちゃんだが、もういつもと同じになったそうだ。よほど疲れたのか寝てばかりいるらしい。やはり犬には気はよく効く。
イギリス人のLさんにも、あれ以来毎日気を入れに行っているが、本人は喉だけでなく身体のどこにも今まであった痛いところや変な感じが無いようになったと言っている。元気になってお腹が空くのかいつ普通食が出るのかと尋ねられてもこればかりは病院のやり方に従うしかない。いずれにせよ絶食をしたら復食は絶食した期間の2倍かけるのが原則だから急がない方が賢明だ。と説明しておいた。
今回も犬と白人にはやはりよく効くとまた思わせてくれた。
犬にはよく効くと書いたらやはり猫好きの人はじゃー猫はどうなんだと知りたくなるのではないかと思うのでその辺についてちょっと書いておきたい。
過去に猫にも何回か頼まれて気を入れた経験から言うと、猫にも効く事は確かだ。生物なら猫に限らず効くと思ってる。気を物体に入れることができるということも大学の後輩からの報告で確認した事もある。
ただ治療師として未熟なのか、猫の場合どこが悪いか分からない。犬は人と同じで、大体だがどこが問題か分かるのでよし治せた!と納得できるのだが、猫の場合はただ身体全体に気を入れるというだけのことしか出来ない。
この道に関係している人なら分かると思うが、気を入れると相手の痛いところと同じところが痛くなったり、冷たく感じたり熱く感じたり色々な感覚が施術しているものにうつってくる。
対面していたら鏡写しに、背中からなら身体そのままに症状がうつってくる。真横からは無意識なら背中からと同じで、意識で対面に替えられる。遠隔治療の場合は自分の思う方向からできるし反応もそのように出る。それであこが悪いここが悪いと言うのだが、それが猫からはない。
犬が飼い主の病気を背負って亡くなったというような話をたまに聞くが、この気に含まれていると思われる情報の類似性とそのやりとりがそのような現象に関係しているのではないかと思っている。
猫は化け猫の話はあっても犬のような話を聞かない。
明日からは気の治療師として私が辿った道を今まで以上に書いていきたいと思っている。