2008年06月29日
勉強会最終稿
今回の勉強会で話したことから、あと少しだけ書いておこう。
コリッキーさんから憑依ということについてどう思ってるかという問いかけがあった。
霊的なことの分からない私には、憑依という観念がほとんどない。
私の治し方は、今回他の参加者から危ないという指摘を受けたやり方だが、自分の中に患者の感じてる痛みとかを取り込んでいく。
他の参加者の場合は、何かを外すとか抜くというようなスタイルで、そこに穴ができたという感覚からその穴をエネルギーで満たすという方法のようだ。
私のやり方は感覚的には、患者のエネルギー体の波長に自分のエネルギー体の波長を同調させどんどんエネルギーを送り込み、それによって押し出されてきた問題のあるエネルギーとその信号を共有し、自分のエネルギー体で波長を変換し消えてもらうという言葉にすればそんなやり方のようだ。
だから穴を埋めるということはない。
ナベさんも私と方法は違うだろうが、入れるのが先で穴は埋めないと言っていた。
霊的な存在というものはあるだろうと思っているから、近頃その影響があるかと思ったら、その霊的なエネルギー体ですら自分の中に取り込む意識を持つことにしている。
分かりやすいから憑依霊という言葉を使うが、憑依霊を取り込むことに関しては危ないという強い否定的な指摘を受けた。
ところで、霊という存在があるとしてどうして憑依するかということだが、生きている者の持ってるその同じような波長に引き寄せられると考えるのが自然だ。
こちらが引き寄せているのであって、あちらからいらっしゃってるとは思えない。
その典型が死後の世界のようで、肉体がないだけに同じ波長のエネルギーが集まるしかないから、地獄天国というものはないのだろうが、想念の世界としてそういうものを作り上げてしまうと考えるのも自然だと思っている。
そう考えると、心を清らかに保ち爽やかな生活をするように努力すれば、ゲスな波長の近寄る術はないだろう。
ということで、私は、今の治療スタイルを続ける限り心と生活態度をもっと改善し続ける必要があるのだが・・・う~~ん、やはり危険かな?
ところで、憑依という言葉は高次の存在が降りても憑依といえるが、それではやはり語感的に誤解が生じると思われる。
実際、コリッキーさんがそのように使うので私も少し誤解していた。
「醗酵」「腐敗」と同じ醗酵でも使い分けるように、良くないときは憑依、高次の場合は神がかりとでも区別しておいた方がいいように思った。
言葉は決めてもまだまだ問題はある。
どうしたらこれは憑依でこれは高次の神がかりだと決められるのかということだが、これに関しては答えを持たない。
ということで、私の場合は憑依も神がかりも暫くは判断しないことにして、不調の信号を変換するという感覚だけでいるのが、無難で安全なように思える。
さて、治し方はともかくとして患者本人の同意を得ないで治すのは許されてないという発言があった。
それは、霊律という法律のようなものに違反するらしい。
ぎりぎり許されてるのは、話せない赤ちゃんとか昏睡状態で家族の同意を得たような時だけらしい。
親切心で同意なく勝手に治療してしまうと、罰として自分に来るらしい。
グリーンさんもその経験があって、剣がささってしまったのを師匠に頼んでも自分で取れというだけで取ってもらえず困った経験談をしてくださったが、冷たいようだが、同意なしではこれからはしないでおこうと心に決めた瞬間だった。
(神様、今まであるいは継続中のは、私の無知ということでお許し下さい。)
長くなって申し訳ないが、最終稿ということでもう少しお付き合い下さい。
さて、集まった五人の治療代は安い。
赤ひげさんは治療院をやってるので決まった額があるが、それを近々下げると言っている。
他は喜捨のスタンスでやっている。
どうでもいいことだが、関東の方が関西より額が多いというのは誰もが経験しているようだ。
感謝の念が関西人には薄いのだろうか、それとも単に経済的な問題だろうか、興味はあるが調べるほどのことでもない。
あまり能力のない人ほど請求が高い傾向にあるという話になり、「何でも旬のものはうまくて安いということじゃない?」と言わせてもらった。
力はしょぼいが高額を要求する治療師は、温室栽培の野菜のように季節はずれの珍しさの値打ちと考えることにした。
治療代の高い気功師とか加持祈祷に出会ったら、見世物を味わうつもりでお金を払い、結果に期待を持たないほうが正解だと思う。
帰路の新幹線の中でナベさんが、ケーキセットぐらいを食べさせてもらうのは相手の心の負担を取るためにも善いかと思うけど、子供の頃からできたものに高額な請求は出来ないと言っていた。
棚からぼた餅のような力の得方をした私も同感です。
コリッキーさんから憑依ということについてどう思ってるかという問いかけがあった。
霊的なことの分からない私には、憑依という観念がほとんどない。
私の治し方は、今回他の参加者から危ないという指摘を受けたやり方だが、自分の中に患者の感じてる痛みとかを取り込んでいく。
他の参加者の場合は、何かを外すとか抜くというようなスタイルで、そこに穴ができたという感覚からその穴をエネルギーで満たすという方法のようだ。
私のやり方は感覚的には、患者のエネルギー体の波長に自分のエネルギー体の波長を同調させどんどんエネルギーを送り込み、それによって押し出されてきた問題のあるエネルギーとその信号を共有し、自分のエネルギー体で波長を変換し消えてもらうという言葉にすればそんなやり方のようだ。
だから穴を埋めるということはない。
ナベさんも私と方法は違うだろうが、入れるのが先で穴は埋めないと言っていた。
霊的な存在というものはあるだろうと思っているから、近頃その影響があるかと思ったら、その霊的なエネルギー体ですら自分の中に取り込む意識を持つことにしている。
分かりやすいから憑依霊という言葉を使うが、憑依霊を取り込むことに関しては危ないという強い否定的な指摘を受けた。
ところで、霊という存在があるとしてどうして憑依するかということだが、生きている者の持ってるその同じような波長に引き寄せられると考えるのが自然だ。
こちらが引き寄せているのであって、あちらからいらっしゃってるとは思えない。
その典型が死後の世界のようで、肉体がないだけに同じ波長のエネルギーが集まるしかないから、地獄天国というものはないのだろうが、想念の世界としてそういうものを作り上げてしまうと考えるのも自然だと思っている。
そう考えると、心を清らかに保ち爽やかな生活をするように努力すれば、ゲスな波長の近寄る術はないだろう。
ということで、私は、今の治療スタイルを続ける限り心と生活態度をもっと改善し続ける必要があるのだが・・・う~~ん、やはり危険かな?
ところで、憑依という言葉は高次の存在が降りても憑依といえるが、それではやはり語感的に誤解が生じると思われる。
実際、コリッキーさんがそのように使うので私も少し誤解していた。
「醗酵」「腐敗」と同じ醗酵でも使い分けるように、良くないときは憑依、高次の場合は神がかりとでも区別しておいた方がいいように思った。
言葉は決めてもまだまだ問題はある。
どうしたらこれは憑依でこれは高次の神がかりだと決められるのかということだが、これに関しては答えを持たない。
ということで、私の場合は憑依も神がかりも暫くは判断しないことにして、不調の信号を変換するという感覚だけでいるのが、無難で安全なように思える。
さて、治し方はともかくとして患者本人の同意を得ないで治すのは許されてないという発言があった。
それは、霊律という法律のようなものに違反するらしい。
ぎりぎり許されてるのは、話せない赤ちゃんとか昏睡状態で家族の同意を得たような時だけらしい。
親切心で同意なく勝手に治療してしまうと、罰として自分に来るらしい。
グリーンさんもその経験があって、剣がささってしまったのを師匠に頼んでも自分で取れというだけで取ってもらえず困った経験談をしてくださったが、冷たいようだが、同意なしではこれからはしないでおこうと心に決めた瞬間だった。
(神様、今まであるいは継続中のは、私の無知ということでお許し下さい。)
長くなって申し訳ないが、最終稿ということでもう少しお付き合い下さい。
さて、集まった五人の治療代は安い。
赤ひげさんは治療院をやってるので決まった額があるが、それを近々下げると言っている。
他は喜捨のスタンスでやっている。
どうでもいいことだが、関東の方が関西より額が多いというのは誰もが経験しているようだ。
感謝の念が関西人には薄いのだろうか、それとも単に経済的な問題だろうか、興味はあるが調べるほどのことでもない。
あまり能力のない人ほど請求が高い傾向にあるという話になり、「何でも旬のものはうまくて安いということじゃない?」と言わせてもらった。
力はしょぼいが高額を要求する治療師は、温室栽培の野菜のように季節はずれの珍しさの値打ちと考えることにした。
治療代の高い気功師とか加持祈祷に出会ったら、見世物を味わうつもりでお金を払い、結果に期待を持たないほうが正解だと思う。
帰路の新幹線の中でナベさんが、ケーキセットぐらいを食べさせてもらうのは相手の心の負担を取るためにも善いかと思うけど、子供の頃からできたものに高額な請求は出来ないと言っていた。
棚からぼた餅のような力の得方をした私も同感です。
Posted by江龍武at13:25
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